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4週間たって。 [その他]

3月11日金曜日。午後2時46分 すべてはそこから始まった・・・。

6時間目の授業,発表会に向けて,練習していました。
私は,パソコンのwebカメラを使って子どもたちの発表を撮影していました。
4組目の発表が始まったとたん,大きな揺れが学校をおそいました。
子どもたちを自分たちの周りに寄せ,揺れがおさまるのを待ちました。

スピーカー,時計が落ち,棚にあるものが吹っ飛んできました。
子どもたちは互いに身を寄せ合い,あまりの恐怖に泣き出す子ども,励ます子ども,
目をつぶってただただ,おさまるのを待っていました。

揺れは大きくなり,小さくなったかと思うとまた,大きくなりなかなかおさまる気配がありませんでした。
いつの間にか,電気が消えていました。

揺れが一段落ついたのを確認し,今後の行動を確認に職員室に向かいました。
その途中,他のクラスの様子を確認し,声をかけていきました。どのクラスも日頃の訓練の成果か
しっかりと机の脚を押さえて机の下に潜っていました。教室は,荷物が散乱していました。
幸いなことに,どのクラスもガラスが割れている様子はありませんでした。
また,怪我をしている子もいませんでした。
廊下は,何枚かガラスは割れていました。
その途中も,余震か本震の続きかわからない揺れが続いていました。
防火シャッターをくぐって職員室に飛び込みました。
職員室も,荷物が吹っ飛びとんでもない様子でした。
びょん:「これからどうします?」
先生:「とりあえず,体育館に集めよう。」
び:「放送は?」
先:「電源が落ちてだめ,使えない。」
び:「非常放送も?」
先:「だめ。」
び:「じゃ,2階は自分が伝えます。」
しかし,もしもの時の非常放送が使えないという異常事態に気づくこともなく
二次避難場所である体育館に移動しました。
廊下は,荷物が散乱し,足の踏み場に苦労しながら歩いていきました。
その間も,断続的に揺れが襲ってきました。
子どもたちは足下に注意しながら,お互いを励まし合いながら移動しました。

体育館には,保護者の方が,集まって我が子のくるのを待っていました。
大きな地震の時は,保護者に引き渡す訓練をしていたので,
お知らせすることなく集まっていたのです。
保護者:「早く,子どもを」

訓練をしていたこともあり,大きな混乱もなく保護者の方に子どもを引き渡すことができました。
びょん:「気をつけてお帰りください。」
    「ここ,避難所になっているので,不安であればここにいてもかまいません。」
    「校舎内は危ないので,ランドセルは,次に来たときに。今日はこのままお帰りください。」
次々と子どもを無事におうちの人に引き渡すことができ,安心していました。
絶え間なく続く揺れ,そのたびに小さな子どもたちは悲鳴を上げました。それでも
おうちの人と会うことができた子どもは,安心して帰っていきました。

実は,このときもっと恐ろしいことが起きているのに,我々担任は全く気づきませんでした。

体育館には,地域の方が次々と避難してきました。
「これ,宮城県沖地震かな。」
「ついに来たね。」
そんな会話が聞こえてきました。

半数以上の子どもを,返した頃,教室に移動するように指示がでました。
それを聞いた私を含めた担任の先生は
「え?教室はぐちゃぐちゃで危険なのに,なぜわざわざ?」
と疑問に思いました。

びょん:「なんでなんです?」
先生:「津波警報がでたらしい。」
びょん:「あぁ,なるほど。」

納得はしたものの,海から3km離れているここまで,津波が来るとは思ってはいませんでした。
昨年襲ったチリ津波の時も,全くこなかったではないか。
その時にいった言葉,
「ここまで,津波きたら,石巻終わってますよね。」

子どもたちを二階の教室に,避難させ私は窓から外を見ました。
そこにはいつもの風景が広がっていました。

しかし,よく見ると車があり得ない動きをしていました。
「?」
津波です。次々と車が運ばれてきます。学校に向かってつっこんできています。
水のかさもどんどん増えてきます。
(一応安全のために三階へ移動させよう。)
あまりの水の増え方に,心配になった私は,
上からの指示を待たず,子どもたちおよび避難民の方に指示を出しました。
あまりのことに,いつも元気な子どもたちは,黙り込んでいました。

そんな中でもいろいろなものがどんどんと学校にむけて流れ込んできました。
車,物置,丸太,トタンなどなど。

あまりの光景に,あっけにとられた私。
近くにデジカメやビデオカメラがあったのにもかかわらず,撮影することも忘れてしまいました。

あっという間に学校の周りが海と化してしまいました。
校庭にあるブランコ,滑り台もすっかりと水没してしまいました。

完全に孤立してしまいました。

600人近くの大人,子どもが校舎内に閉じこめられ身動きがとれない状態に・・・。

近くの家あたりから,
「助けてください!」
と声が聞こえてきましたが,何もすることができませんでした。

日がどんどん暮れていきました。

「あれ,火事じゃね?」
東の空をみると,真っ黒な煙と真っ赤な炎が見えました。

私たちには,その火がこっちに来ないことを祈るだけしかできませんでした。

日がすっかりと落ち,電気もない暗い校舎内には,たまたま自分の教室にあったラジカセから
聞こえてくるラジオの音だけが流れていました。

時々,全身ずぶ濡れになって避難してきた方がきました。

毛布などあるわけもなく,教室のカーテンを引きちぎって,暖をとり,子どもたちのジャージに着替えさせました。

暗くなった外から
「助けてください。」との声が時々聞こえてきましたが,無力な我々は何もできませんでした。

「避難所の学校に行けば何かある。」
そう思っている人がいたかと思いますが,実際のところ,毛布も,備蓄の食糧も何もない状態でした。

「これからどうなるんだろう。」

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サナギン

奥さんやお子さん、そしてリーフくんがみんな無事で
本当によかったです。
それにしても、すさまじい記録に読んでいて胸が
詰まりました。びょんさんの適切な判断がなければ
危ないところだったんですね。

あれから4週間ですか。
まだまだ昨日のことのように感じます。
それくらい、あの日からずっと緊張感が続いています。
先日の余震も大丈夫でしたか?
まだまだ予断を許さない日が続きますね。
みなさんの無事を祈ってます。
by サナギン (2011-04-09 15:48) 

びょん

・サナギンさん
 自分は,車が流されただけで,
 帰るべき家も,迎えてくれる家族も無事でした。
 なので,いっそう,今学校にいる避難民の方のために,
 がんばろうと思っています。
 でも,さすがに,1ヶ月緊張感を持続は,精神的に,体力的に
 限界に近づいてきました。

 せっかくなおってきたライフラインも,あの余震で振り出しに戻るし・・・。
 
 でも,がんばりますよ。
 子どもたちのためにも,大人がへばってられません。
by びょん (2011-04-09 17:10) 

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