あれから1ヶ月 [その他]
不安な夜が続きました。
雪が強めに降ってきました。
夜が更けるにつれ,寒さが体を襲いました。
自分たちの置かれた状況が,どうなのか。
周りはいったいどうなっているのか。自分たちの家族・家は,果たして無事なのか。
引き渡した子どもたちは,無事,避難しているのだろうか。
知るよしはありません。ただただ,皆の無事を祈りました。
私は,自分のバックからこの時初めて,携帯を開きました。
まだ,アンテナが立っていました。
メールが3通。
妻から2通。「こっちは大丈夫!」14:50
「実家のお父さんとお母さんたちが,うちに避難してきた。
妹さんが,コンビニの屋根で孤立していてやばそう。」
ここで,初めて,家族の無事がわかりました。実の妹は,私よりも海に近い学校に勤めていました。
なぜ,コンビニ?ということが疑問でしたが,知るすべはありませんでした。
最後の1通は父から「家に避難させてもらっている。実家は,あるが,ぐちゃぐちゃだ。」
自分も無事を知らせようと,電話をかけましたが,全くつながる様子はありませんでした。
とりあえず,1通メールを妻に送りました。「とりあえず,生きているから,心配いらない。」
ラジオからは,次々と助けを求めるメールが読まれていました。
私も,少しでも救助が早まるのではないかと,学校を代表してメールを送りました。
携帯の電池も大切にしなければならないので,あとは,電源を切りました。
ラジオから聞こえてくる情報はどれも,信じがたいものでした。
荒浜で,200体以上の遺体が見つかっている。
利府のジャスコで女の子がなくなった。
南三陸,北上,女川と連絡がつながらない。
多賀城で爆発が起こっている。
「あぁ。せっかくの新車だったのに,半年たたずに廃車だよ。」
「エコカー減税が逆に高くつきましたね。」
気を紛らわすために,軽口をたたきながら,過ごしました。
先生たちの車は,私のを含め,津波によって流されていました。
一つの教室に入って座りながらただ,ただ時が流れるのを待ちました。
できれば,これが夢であるように,祈りながら。
暗闇がこれほど,恐ろしいものだと改めて思い知らされながら。
気がつくと,少し,空が明るくなってきました。
日の光の暖かさを感じましたが,
周りが見えるようになると,見慣れた町のあまりの変わりようにただ,ただ唖然としました。
地獄?戦後の日本?歴史の教科書でみたような・・・。
その後は,避難してきたお父さん方と協力して
食料を得るため,近所のお店にヘドロの中を歩いて,もらってきたり,
飲料水を確保するため,浄水場に歩いていったりとしました。
市からの救援物資は何も届きません。
一部の避難民の方からは,「もっと食べ物よこせ」だの「飯はないのか」だの心ない文句を言われました。
先生方は,自分の家族の安否すらわからないのに,学校に詰めているのです。
中学生ですら,掃除をしたり,乾電池を使って明かりを作ったりと働いているのに,
文句を言う方は,食料集めもせず,掃除もせず・・・。
「今配っているものだって,片道1時間もかけて歩き,PTAのお父さん方が自前で買ってきたものだ!」
思わず怒鳴りそうになりましたが,その人も不安なんだと思い,ぐっと我慢しました。
私が,自分の家に帰ったのは,震災から3日目でした。
歩きながら,変わり果てた町の様子に涙しました。
自然災害の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。
3時間かけて歩いて,我が家につきました。
「ただいま。」
私の帰宅に驚いた妻が,
顔をくしゃくしゃにして妻が出迎えてくれました。
私は,家族も家も無事でした。
しかし,命以外はすべて失った方が,たくさん身の回りにいます。
そんな人たちのために,私たちに何ができるのか,これからも考えていきたいと思います。
あれから1ヶ月。学校の北側は少しずつがれきも片付けられてきました。
しかし,避難所となっている学校は,電気も水道も復旧していません。
学校の南側は,全く手つかずのがれきの山が続いています。
みなさん,現場は,まだ何も始まっていません。
雪が強めに降ってきました。
夜が更けるにつれ,寒さが体を襲いました。
自分たちの置かれた状況が,どうなのか。
周りはいったいどうなっているのか。自分たちの家族・家は,果たして無事なのか。
引き渡した子どもたちは,無事,避難しているのだろうか。
知るよしはありません。ただただ,皆の無事を祈りました。
私は,自分のバックからこの時初めて,携帯を開きました。
まだ,アンテナが立っていました。
メールが3通。
妻から2通。「こっちは大丈夫!」14:50
「実家のお父さんとお母さんたちが,うちに避難してきた。
妹さんが,コンビニの屋根で孤立していてやばそう。」
ここで,初めて,家族の無事がわかりました。実の妹は,私よりも海に近い学校に勤めていました。
なぜ,コンビニ?ということが疑問でしたが,知るすべはありませんでした。
最後の1通は父から「家に避難させてもらっている。実家は,あるが,ぐちゃぐちゃだ。」
自分も無事を知らせようと,電話をかけましたが,全くつながる様子はありませんでした。
とりあえず,1通メールを妻に送りました。「とりあえず,生きているから,心配いらない。」
ラジオからは,次々と助けを求めるメールが読まれていました。
私も,少しでも救助が早まるのではないかと,学校を代表してメールを送りました。
携帯の電池も大切にしなければならないので,あとは,電源を切りました。
ラジオから聞こえてくる情報はどれも,信じがたいものでした。
荒浜で,200体以上の遺体が見つかっている。
利府のジャスコで女の子がなくなった。
南三陸,北上,女川と連絡がつながらない。
多賀城で爆発が起こっている。
「あぁ。せっかくの新車だったのに,半年たたずに廃車だよ。」
「エコカー減税が逆に高くつきましたね。」
気を紛らわすために,軽口をたたきながら,過ごしました。
先生たちの車は,私のを含め,津波によって流されていました。
一つの教室に入って座りながらただ,ただ時が流れるのを待ちました。
できれば,これが夢であるように,祈りながら。
暗闇がこれほど,恐ろしいものだと改めて思い知らされながら。
気がつくと,少し,空が明るくなってきました。
日の光の暖かさを感じましたが,
周りが見えるようになると,見慣れた町のあまりの変わりようにただ,ただ唖然としました。
地獄?戦後の日本?歴史の教科書でみたような・・・。
その後は,避難してきたお父さん方と協力して
食料を得るため,近所のお店にヘドロの中を歩いて,もらってきたり,
飲料水を確保するため,浄水場に歩いていったりとしました。
市からの救援物資は何も届きません。
一部の避難民の方からは,「もっと食べ物よこせ」だの「飯はないのか」だの心ない文句を言われました。
先生方は,自分の家族の安否すらわからないのに,学校に詰めているのです。
中学生ですら,掃除をしたり,乾電池を使って明かりを作ったりと働いているのに,
文句を言う方は,食料集めもせず,掃除もせず・・・。
「今配っているものだって,片道1時間もかけて歩き,PTAのお父さん方が自前で買ってきたものだ!」
思わず怒鳴りそうになりましたが,その人も不安なんだと思い,ぐっと我慢しました。
私が,自分の家に帰ったのは,震災から3日目でした。
歩きながら,変わり果てた町の様子に涙しました。
自然災害の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。
3時間かけて歩いて,我が家につきました。
「ただいま。」
私の帰宅に驚いた妻が,
顔をくしゃくしゃにして妻が出迎えてくれました。
私は,家族も家も無事でした。
しかし,命以外はすべて失った方が,たくさん身の回りにいます。
そんな人たちのために,私たちに何ができるのか,これからも考えていきたいと思います。
あれから1ヶ月。学校の北側は少しずつがれきも片付けられてきました。
しかし,避難所となっている学校は,電気も水道も復旧していません。
学校の南側は,全く手つかずのがれきの山が続いています。
みなさん,現場は,まだ何も始まっていません。
2011-04-11 16:05
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コメント(2)
妹さんもご無事でしたでしょうか?
コンビニの屋根の上で孤立しているという状況を聞いた
だけでも、異常事態ですよね。
ご無事であればよいのですが、ほんとうに・・・。
びょんさんは先生という立場もあるので、子供達のためにも
毅然とした態度でいる必要があるのですよね。
こういう時だから、思わず人間の本心もむき出しになって
しまうでしょう。
でも、子供達はちゃんとびょんさんのことを見ていると
思いますよ。先生みたいな大人の人がいてくれてよかったと
思っていますよ、きっと。
by サナギン (2011-04-13 11:39)
・サナギンさん
二回続けての長文申し訳ありません。
当時のことを少しでも,記録しておこうと自分のためにも
書いてみました。
妹のことは,次回書きたいと思っています。
けっこう波瀾万丈でした。
よく生きててくれたって感じです。
私だけでなく,先生方すべてが,
子どもたちがいたからがんばれたと言っています。
子どもたちを支えるのも確かですが,
子どもたちから支えられているのも事実です。
今日,離任式があり,このような状況下でも異動があり
私も異動することになりました。
ある子どもからこのような手紙をもらいました。
「地震,凄い怖かったけど,先生が「大丈夫,大丈夫」と
いつもと同じように,言ってくれたから
先生のそばにいれば安心だったよ。」
と書いてありました。
とても,とても,うれしかったです。
by びょん (2011-04-14 19:47)